街路樹の種類は一体何であろう。上を見上げるとぶら下がっているあの実は何であろうと思っていたら、先週あたりから、その街路樹の下を歩いていると、カサっ、ゴンっ、パカっ。という音がしてその実が落ちてきた。何と、中身は栗。この40本くらいある木はすべて栗の木なのである。ここ最近は、街路樹の下を歩くたびに、カサっ、ゴンっ、パカっという栗の木が織りなすリズムがあるのだが、如何せん危険である。こちらの栗は栗を包んでいる外皮が日本のムラサキウニのようなイガイガとは異なり、どちらかというと食虫植物の様相である。ま、豊富に落ちており、はたまた、秋の味覚であります栗ですから食べたくなります。今宵の晩御飯は栗ごはんですわの、と、街路樹の紅葉とともに気分も高揚。よって、落ちたばかりであろう、天然のワックスが木漏れ日に当たり、てらてらと光っている栗を何個か取り早速準備に取り掛かる。まずは熱湯にくぐらせ鬼皮、渋皮を取る。しかしながら、鬼皮を剝くため栗のおしりのほうに包丁で切れ込みを入れようとすると、不安定な栗はつるんと転がり私の中指に包丁が乗る、出血。絆創膏を貼り、出直し。次に、指で鬼皮を剝こうとすると、今度は親指の指と爪の間に鬼皮がギュッと入り、しばし、悶絶。仕切りなおして、双方の指がひりひりする中、鬼皮、渋皮をむき終え、ためしに味見をしてみると、強烈な苦みとえぐみが舌とのどにダイレクトにやってきて、でただでさえのどを痛めているのに、、、と思いつつ、水を飲んだりキャラメル(Christophから貰った)なめたりと、なんとか中和。いやいや、これは固ゆでをしてないからだな、と思い、数分茹でて、再度味見をしてみると全く変化なく。苦みとえぐみの交響曲が舌とのどで奏でられ、これはご飯と一緒に炊いてしまうとご飯もデストロイな結果になってしまうわということにようやく気付いて、栗はあきらめることにした。

よくよく考えるとあれだけ栗が落ちているのに、誰ひとり血眼になって栗拾いをしている人がいないのだ。これは食べるための栗ではないのだろうなあ。日本でいうところの渋柿みたいなものなのだろうか。干せば甘くなるのだろうかという考えが浮かぶけれども、まあ、面倒くさいのでやめる。では、このたくさん植えられている栗は何のためなのだろうかということであるが、スイスは永世中立国なので、自分の身は自分で守らないといけません。スイスの家庭には銃があるらしいのだが、弾は国が保管しており、いざというときに(ありませぬように)、弾を配布?するらしいのだが、急にやってきた危険人物に対しては、弾は間に合いませんね。そこでこの栗なのです。栗爆弾として各家庭の窓から危険人物に栗を投げて追い払う。結構痛いはず。はたまた、危険人物がお腹を空かせることもあるでしょう。そういうときは、これは栗ね、食べれるね、というわけでその人も食べてしまうわけです、そうすると、苦みとえぐみの攻撃がやってきます。なんとなく戦意を失わせるものなのではないかなと。こんな栗ごときに、、、というわけで。つまりは丸善における檸檬のような存在であるのかもしれません。

栗についてわれわれは
栗についてわれわれは
長きにわたる探求の末
何の結論を得るには至っていない。