19, 20, 21日

計画停電なし

ノートリアス風邪は赤い靴を履いた踊り子のように一日中くーらくーらしながら動き回っていたら治癒をしたが、今度はものもらいを抱えてしまった。いったい私は何がしたいのか。ものもらいに関しては、過去2度の切開切除を行ったことがあり、目の前に迫ってくる注射の針とメスと眼球をおおおう血の海を容易に想像できてしまうので、薬局に行って目薬を求める。薬剤師曰く、「狙いを定めて差してください」と。
さて、19日は夜の18時からの停電予定であることと、冬の寒さが舞い戻るという天気予報だったので、これは体の中から温まるものでないといけないなと思い、ラクレットに食べることにした。ラクレット用のチーズはあるのか、という疑問が沸くのであるが、イエス!アブソルゥゥートリー、イエェス!年明けに、寒くなったねえ、ラクレットが食べたいねえというので、ネットでスイス産のラクレット・ケーゼ(でないと、臭さが足りません)を買い求めていた。1キロの重さ、ええ、1キロ、のラクレット用のチーズが後光を射して冷蔵庫に鎮座ましましている。ラクレット・オーブンもスイスに滞在していたときに、ピーター一家から最初に頂いたものがある。また、熱源はろうそくなので、停電の際でも、灯りも兼ねることができ、チーズで身体の中から温まり、かつ、それが翌日まで体内の熱を持続するという、さすが山岳地帯の食べ物である。


ラジオではリスナーの方からの被災者への言葉をよく聞く。耳障りの良い言葉、美辞麗句。聞いている人たちを「じゅん!」とさせることが意図なのだろうか。節電をすることも、物資をおくることも、募金をすることも、黙ってするのでよいのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。自分がやっていることを発言することによりなにかあるのだろうかと思う。リクエストされる音楽も「歌詞がどうだとか」、とか「これを聞いて希望を持ってほしい」とか、そういうものばかり。こういう時こそ、氷川きよしの「きよしのズンドコ節」あたりが、良いのでないかと思う。ラジオから流れたら「ずんずんずんずんずんどこ」で、「きよし」の部分で心のなかでも歌っちゃう気がするのだが。